手
だいぶまえに死んだ祖母は手をはげしく火傷していて、指がひっぱられてすぼまったかたちをしていた。彼女はそのかたちをずいぶん気にしていたが、私はなぜかそのかたちがかわいらしいとずっと思っていた。子供の私が祖母と手をつなぐときは、指先と指先とだけが触れあうかたちになって、その感触をいまでもありありと記憶している。
彼女の葬儀のときには、親族がその手のまわりに集まってきて思い出話を語っていたから、あの指は彼女をあらわす象徴的なものとなっていたのだろう。大人になって子供と手をつなぐ機会がふえて、あの感触が突然よみがえってくることがある。子供と手をつなぐとき、手の大きさの違いから、大人は指だけでつながるかたちになる。祖母の指の感触ほどではないにせよ、その不確かさがむしろ心地よく、だからこそ小さな指を大事に扱いたい気持ちになる。
面と面でぶつかりあうのではなく、点や線で触れあうこと。指で触れることは、触れること自体の一回性を教えてくれる。
人の手のかたちに惹かれてしまう。手は人の身体部位のなかでも、もっとも三次元的に複雑な動きをするし、表情豊かな意味をはらんでいる。とりわけ手に表情を与えているのは、指の動きである。指は見ていて飽きることがない。
手をめぐるディテール
建物と手との関係はうすいように見えるけれど、建物と人が直接的に触れあうほぼ唯一の接点は手である。ル・コルビュジエという人は、手のことをもっとも考えていた建築家である。彼は掌のかたちを象ったり、握手するかたちを取手にしたりしている。直接手と建物がぶつかりあうようなこうした関係は魅力的だとは思うが、実は、私はル・コルビュジエのやり方は生理的には違和感がある。
その一方で、たとえば吉田五十八の建物を訪れて優しい気持ちになるのは、建物と人とが指で触れあうことを誘っているからだ。小さな引手などのディテールは、そのプロポーションの美しさもさることながら、日常使いに耐えられる工夫が加えられながらもそっと触れて操作することの魅力を伝えてくれている。そのときだけ時間がスローモーションになっていくような、時間感覚の操作でもある。とくに住宅では、忙しい日常生活のなかでスローモーションのような時間を生起させる設計は必要なことだと思う。
建物を設計するとき、人の身体のことをよく考える。住む人が家で素敵な振る舞いをしているのは、建物の設計がよいからという場合もなくはない。ただ人の身体のことをよく考えるからといって、身体に直接寄り添いすぎる建物をつくればよいというわけではない。なれなれしくまとわりつくような関係は好ましくないと思うからだ。でも、建物と触れあう瞬間の印象は大事にしたいと思う。
建物は、インタラクティブである必要はない。多くを語らずじっと黙ってそこにあり続けてくれればそれでよい。人が建物に働きかけたときに、建物のことをいとおしく思えるようなインターフェースの設計にこそ、細心の注意を払いたいと思う。もちろんこの話は、建物の設計の総体のなかでは、小さな、とるにたりない話ではある。
(初出:2010年旭硝子GlassPlaza・コラム)