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architect & associates


オートリヴァース
「現代写真作家による建築の表現:ルフ、ティルマンス、大島成己」について


  Wolfgang Tillmans "Weissenhofsiedlung" 2001


ルフ・ティルマンス・大島成己
とても教育的配慮に満ちた明快な講演でした。コンセプトがそのまま一分の一で写りこんでいるべきであるとするモダニズムの一致要請。写真においてはリアリズム、建築においては機能主義というかたちでこの理念が長く制作の現場を支配していたけれども、モダニズムの一致の要請を疑い、その一致を原理的に不可能にしているメディア自体を問い直す作業が、ポストモダンの写真家であるトマス・ルフ、ヴォルフガング・ティルマンス、大島成己の仕事に共通する。清水さんはそのように要約していきます。

ルフは、見ることの政治性を摘出する作業を通して、ティルマンスは、写真というメディアの成立条件である四角いフレーム自体を問い続けることを通して、大島は見えすぎて見えないという逆説的な視覚の状態を追求することを通して、写真というメディアの成立条件を浮かび上がらせていくというわけです。たとえば大島は、無名のオフィスビルのガラスファサードの表面におびただしく展開する反射と透過のイメージの戯れを正確に写し取りながら、そこに写りこんでいる撮影者をデジタル加工で注意深く消去していきます。前景と後景が反転するパースペクティブの混沌の中に見えてくるものは、すべてが写っているにもかかわらず、それを見ている視点が消え去り、あからさまな可視性の中に主体が溺れていく状態、見えすぎるがゆえに逆に不可視性がクローズアップされざるをえないような視覚の臨界を、大島の写真は提示していると清水さんは論じます。

写真と建築、逆のプロセス
清水さんの講演の中で、私がもっとも惹きつけられた論点は、写真と建築は逆のプロセスを辿るというものでした。建築は、いわば青写真というかたちでコンセプトを二次元の表象に写しこみ、それをもとに構築のプロセスを経て完成していく。そしてそれがさらに二次元の表象である写真に写されてメディアにのり、私たちの眼に届けられる。一方で写真は、人間の眼に映るすでに存在する現実世界を二次元の世界に還元していく作業を行う。これらはちょうど反転したプロセスだというのです。多少荒っぽい議論であることは承知の上で、しかしこれは本質的な問題だろうと思います。

ルフとミース
ルフが、ヘルツォーク&ド・ムーロンとの仕事の後、ミース・ファン・デル・ローエの建築を被写体に選んだのはどうしてなのでしょうか。モダニズムとファシズムとの隠れた共犯性が問題になった時期に、モダニズムの極北と評されるミースの抑圧された政治性を俎上にのせること。清水さんが論じるように、たしかに、ルフの意図がここにあったことは明確でしょうし、見ることの政治性を追求してきたルフにとって、格好の対象に見えたことは想像に難くありません。しかしここには、批判という行為以上に捩れた関係が生まれているように私には見えるのです。端的に言えば、ルフはミースという泥沼にあえて溺れようとしているように見えるわけです。

ルフが一貫して追求してきた主題が、見えるものを追求することを通して見えていないものをリアルに透視する試みであるとすれば、ルフが撮影したミースの写真からは、対象そのものの中に自らの主題を見出しているルフの姿が写し出されているように見えるからです。ルフが選び取った1930年代初頭のいくつかのミースの作品の主題は、ルフの主題にとてもよく似ているからです。今はミースの作品を詳しく論じる余裕がありません。ただ、1947年のニューヨーク近代美術館でのミース展についてだけ触れておくことにしましょう。極端に拡大された建築写真と、図面、縮尺模型、さらには原寸大の家具が厳密に配列された空間設計は、青写真としての建築の構想からメディアとして二次元の表象に還元されていくプロセスを逆に辿り、相対化し、ばらばらにしてしまうようなものだったわけです。建築と写真のプロセスを逆行してはまた辿りなおすオートリヴァースの再生機のように。興味深いことにミースはそれ以後、反動的にモダニズムの一致の要請に自らを同一化していくかのように見えます。ベルリンのナショナルギャラリーは、コンセプトと施工方法を一致させようとするものでした。この逆行が意味するものは、また稿を改めなくてはなりません。

いずれにせよ建築は、モダニズムの核心において、すでに写真に深く犯されていたのです。ルフは、このようなミースまでを見ようとしています。距離をとって冷静に観察しようとしながら、距離を推し測りかねて。そしてこのような共犯関係の緊張感こそが、ルフの写真を見るに値するものにしているのではないでしょうか。

ティルマンスとル・コルビュジエ
同じことはティルマンスにもあてはまるでしょう。ル・コルビュジエのヴァイセンホフジ-ドルンクの住宅を、ほぼ黄金比のフレームの中に対角線上に強引に封じ込める。ル・コルビュジエが、トラセ・レギュラトゥールという黄金比と対角線を用いたデザインツールで設計をしていた事実を浮き彫りにしながらも、重力を無視したような構図の中で建築の重さを剥奪していく。ル・コルビュジエが建築を「写真のように」設計していた事実を付け加えるべきでしょうか。

オートリヴァース
写真は物質としての光の痕跡である以上、対象の力を身にまとわざるをえません。あたかも狩猟民が動物の毛皮を身に纏うことでその力を分有するように、写真には対象が憑依する。建築と写真の現在というタイトルをぼんやりと眺め、「と」という接続助詞を軸にしてまわり続ける奇妙なイメージにとり憑かれながら、清水さんのお話を聞いていました。
(初出:TNプローブ レクチャー・シリーズ:建築と写真の現在)